桂川駅に併合された豆田駅への貨物支線が見えています。ここにも少ないながらも石炭車が留置されていますね。DD51がたった4両の寂しい貨物列車を牽いて下っていく様子が見えます。現在は一部の側線が保線用に残り、豆田への線路跡も一部残っています。ここも電化の際に駅舎が新しくなりました。
篠栗線開通前は筑穂町の代表駅として大変賑わったそうです。写真を見ると有効長が長い交換設備や跨線橋、上下線のホームが見えていますね。現在、交換設備は廃止され棒線駅になり、使われなくなった上り線ホームが寂しく残っています。かつて、ここからは日鉄嘉穂鉱業所上穂波坑へ専用線が延びていました。遺構は殆ど無いです。少し前までは橋台跡が残っていました。
長崎街道の内野宿として栄え、現在も風情ある街並みが残るエリアです。ここも交換設備や跨線橋がある駅でしたが、上穂波駅と同じように棒線駅となり、使われなくなったホームを見る事ができます。貨物ホーム跡と側線も残っており、保線車両が留置している事があります。
桂川を出ると冷水越えをするために最大25‰の勾配を登っていきます。上穂波を抜け、さらに最大25‰の勾配を登って筑前内野へ。ここから25‰−20‰−25‰の連続勾配で冷水トンネルまで一気に登っていきます。
昭和24年、トンネルに充満する煤煙を流すために、筑前山家側の坑口上に設けられた排煙設備。昭和4年、トンネル完成当時は九州一の長さ(3,286m)でした。トンネルは内部のサミットを境に内野側3.3‰、山家側4.5‰(現地にある勾配標は4.4‰)の拝み勾配になっていて、トンネル前後は25‰の勾配で挟まれています。各文献によると、山家側から登ってきた列車がトンネル手前に差しかかると、自動的に巨大なファンが回り出して内野側へ煤煙を流していたそうです。内野側は構造上、自然に流れて出るらしく、装置は必要なかったようです。無煙化後は使用停止にしたまま残っていました。現在、坑口上の建物・機器は撤去されましたが、コンクリート製の遺構が残っています。
ここも長崎街道山家宿として栄えていた街です。内野同様、長崎街道からは少し離れています。駅はホームが2本あり交換可能で、意外にも側線がそこそこありました。駅舎の内野側に2本の上り貨物側線、原田側に砂利用側線、下りホームには下り貨物側線、さらに飼料貨物用側線が並んでいました。現在は、内野側に側線と使われなくなった下りホームが残るのみで、1面1線の寂しい駅になりました。北九州線車両保存会が構内の一部を借りて西鉄車両を保存しています。
ここも原田宿として栄えた街です。筑豊本線は行き止まり式のホームになっており、今も昔も変わりません。蒸気機関車の向きを変えていたターンテーブルの跡が見えています。篠栗線開通前は博多方面への乗り換え客で賑わっていたみたいですね。今は筑豊本線のホームに一日に何本の列車が折り返して行くでしょう・・・次から次に様々な列車が行き交う鹿児島本線ホームとは対照的です。鹿児島本線側の側線には新しいホームが設置されています。駅前も全く違う街並みになりました。