かつて写真左側(西側)には中鶴一坑があり、中間駅から貨物支線が延びていました。営業期間は1923年〜1952年。距離は中間駅から46C≒925.37m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.6M≒965m)。閉山後は宅地開発されて団地・道路になりました。鉄道遺構は曲川の支流に煉瓦橋台が残っています。
ここから筑前中山駅まで貨物支線が延びていました。用水路程の川にコンクリート橋台跡が片側のみ残っています。現在も一部の線路跡は弧を描いた畑になっているので、わかりやすいです。1966年、筑前中山駅への貨物支線が廃止された際に信号場も廃止されました。★印には室木線廃止の転換交付金で設置された鞍手駅があります。
ここには1963年まで三菱新入六坑があり、筑豊本線筑前垣生〜筑前植木間にあった小牧信号場から貨物支線が延びていました。距離は、小牧(信)から1M36C≒2,333m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では1.5M≒2,414m)で、営業期間は1919年〜1966年。1930年に起点が小牧信号場から中間に変更されています。現在は、線路跡は道路になっています。
この駅は側線が無くなったくらいで当時も今もあまり変わらない感じですね。古い駅舎がいい味を出しています。左側(北側)に見える新幹線との交差部分は、訓練運転中の0系新幹線と蒸気機関車がクロスするという粋な演出を見せた場所です。かつて、ここから直方方向に新入第三第四駅までの貨物支線が延びていました。
周辺にあった三菱新入第三坑・第四坑からの石炭をこの駅まで運び、積み出していたようです。貨物支線敷設時は新入第四駅と新入第三駅が別々にありましたが、各駅開業の翌年に統合する形で新入第三第四駅出来たようです。距離は筑前植木から47C≒945m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.6M≒965m)で、営業期間は1910年(支線は1909年)〜1928年。古い時代に廃線となりましたが、細長い用地には近年まで「日本鉄道建設公団国鉄清算事業本部九州支所」(当時)の看板があり、ここに鉄道があったことを伝えていました。
ここからは、幸袋線、新多・塩頭への各貨物支線が分岐しており、各線から集まる石炭列車を捌くために構内も大変広かったようです。新多への貨物支線は小竹駅の勝野側から分岐していました。貨物支線が開業した1913年から1930年までの間、筑豊本線との分岐部分に「新多分岐点」が設置されていました。その後、分岐点は廃止され起点が小竹に変更されています。現在、駅は筑豊本線電化の際に橋上駅舎に生まれ変わり、周辺道路も整備されました。側線が並んでいた場所は駐車場・空き地になっています。貨物支線跡の曲線部分が僅かながら残っています。
古河鉱業西部鉱業所目尾炭坑があった所です。筑豊本線小竹駅(新多分岐点)から延びていました。新多分岐点から新多までの距離は、1M34C≒2,293m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では1.6M≒2,574m・小竹〜新多分岐点間は0.3M≒482m、小竹〜新多間は1.6M+0.3M=1.9M≒3,057mとなっています)。営業期間は、1913年〜1969年。閉山した年に廃止されています。現在、線路跡は道路・遊歩道になっています。構内の一部は空き地が残っています。
古河鉱業西部鉱業所塩頭炭坑があり、小竹からの貨物支線がありました。距離は小竹から1M39C≒2,393m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では1M37C≒2,353m)で、開業は1902年と貨物支線の中では古く、廃止も1945年と古いことから殆ど跡はありません。線路跡を転用したと思われる道路が、小竹駅近くの県道の踏切から並走しています。この踏切横の溝渠には、旧幸袋線の桁・橋台が残っていますが、その隣に貨物支線のものと思われる煉瓦橋台が残っています。
その名の通り、三菱鯰田炭鉱がありました。鯰田駅から延びていた貨物支線です。鯰田〜鯰田炭坑間の距離は、40C≒804m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典でも0.5M≒804m)。営業期間は、1909年〜1945年。1945年からは鯰田駅に併合され構内として存続していました。おそらく炭鉱閉山まで使用されていたと思いますが、詳細な廃止日はわかりません。筑豊本線を離れた支線から何本もの側線が箒型に広がっているのが見えますね。写真中央上の筑豊本線・貨物支線・小川のデルタ地帯には三菱鯰田一坑火力発電所がありました。私が物心ついたときは既に廃墟化していました。下り列車に乗って遠賀川の鉄橋を渡り、カーブに指し掛かると目の前に現れる2本の煙突と巨大な廃墟。子供心に妙に気になる存在でした。小川には煉瓦橋台跡もありました。現在、鯰田炭坑駅跡や三菱の敷地は、一部が歩道になった他は更地のままで、小川の橋台跡も護岸工事のため消えてしまいました。
ここには今も立派なボタ山が残る住友忠隈炭鉱(忠隈駅はリンク先写真左下あたり)がありました。距離は飯塚から33C≒663m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では1898年開業時は52C≒1,046m、移転若しくは起点変更で1909年より0.3M≒482m)で、営業期間は1898年〜1945年。1945年からは飯塚駅に併合され構内として存続していました。おそらく炭鉱閉山まで使用されていたと思いますが、詳細な廃止日はわかりません。レールの一部はしばらく残っていました。飯塚駅の天道寄りにある城崎踏切は看守がいる手動式で、停止線・看守小屋の数メートル手前に支線跡があって、子供心に踏切の手前に線路があるのは何でだろう?って思っていました。現在、踏切手前のレールは撤去され、忠隈へ続いていた所は駐車場になりました。踏切横の川には橋台跡があったと思います。
この写真が撮影された時には既に桂川駅構内となっていましたが、貨物支線・豆田駅として記載しています。ここは麻生豆田炭鉱がありました。桂川(開通当時は長尾)からの距離は24C≒482m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典でも0.3M≒482m)で、営業期間は1909年〜1945年。1945年からは桂川駅に併合され構内として存続していました。写真には貨車が見えるので、1975年3月時点ではまだ使用されていたようです。詳細な廃止日はわかりません。現在、一部の線路跡が草に覆われた状態で残っています。