遠賀川(嘉麻川)を渡った先にあったと考えられる「本洞分岐点」から東側に分岐していたようです。分岐点から本洞までの距離は、29C≒583m(T9・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.4M≒643m)。距離的に考えると★印付近に駅があったと考えられます。ここにも古くから炭鉱があったようです。営業期間は、1899年〜1922年。廃止時期が古いため、この写真が撮影された時には、既に遺構は無かったと思われます。現在、線路跡は工場敷地や空き地になっています。昭和30年代の空中写真を見ると、一部で盛土が残っているのが確認出来ます。また、盛土跡に建設された工場に関連する書類には、当時の盛土跡の写真が掲載されています。
起点・終点の2駅しかない支線が殆どですが、ここの支線は途中駅がありました。周辺には明治炭鉱や三井鉱山の炭鉱があり、多くの石炭車を中泉駅へ送り込んでいたようです。中泉から日焼までの距離は、69C≒1,388m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では1.4Km)。営業期間は、1898年〜1945年。1945年に中泉駅に併合され、構内の一部として存続していたようで、いつ頃まで使用されていたかはわかりません。現在、線路跡は道路や宅地になっているほか、伊田線並走部分は空き地になっています。この写真には、単線時代の伊田線と藤棚・日焼への貨物支線が写っています。
両駅とも明治炭鉱の各坑からの積み出しを行っていたようです。大城第一は、頴田地区から運炭線があり、山をトンネルで越えていたようです。大城第一分岐点は中泉〜日焼間の支線上にあり、さらにそこから分岐した先に大城第二分岐点があったようです。大城第一分岐点から大城第一までの距離は、71C≒1,428m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.8M≒1,287m)。大城第二分岐点から大城第二までの距離は、56C≒1,126m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.6M≒965m)。中泉から大城第一分岐点及び大城第一分岐点から大城第二分岐点までは、ともに0.2M≒321m(停車場変遷大事典)となっています。哩鎖の省略化や改マイル等で正確な位置が掴み難いところなんで、米軍空中写真や昭和30年代の空中写真、現況を比較して位置を示しています。なので写真内の表記は「?」にしています。大城第二はもう少し南(写真右)かもしれません。現在は、大城第一への支線跡は道路・工業団地に、大城第二への支線跡は道路なっています。伊田線のそばには盛土跡・用地杭・橋台跡、大城第二分岐点付近に枕木柵が残っています。
明治鉱業赤池炭鉱があった所です。本線上に赤池分岐点(その後、信号所→聯絡所→信号場)を設けて分岐していました。1908年に赤池炭坑駅が開業した時は、まだ本線上の赤池駅は無く、赤池炭坑駅が赤池駅を名乗っていました。分岐から赤池炭坑までの距離は、28C≒563m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.3M≒482m)。営業期間は、1908年〜1978年。その間、起点が中泉、赤池と2回変わっています。この写真の当時は既に炭鉱は閉山しており、積込施設が廃墟となって残っています。現在は、道路や宅地・空き地になっています。
金田からの距離は、33C≒663m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.4M≒643m)。営業期間は、1909年〜1945年。1945年に金田駅に併合され、構内の一部として存続していたようで、いつ頃まで使用されていたかはわかりません。堀川駅横の中元寺川には、石炭積出桟橋が架けられ、糸田町朝日(後の岡崎・真岡)炭坑から掘り出された石炭を堀川駅までトロッコで運んでいたようです。その説明が炭車を模した石碑に刻まれており、河川敷には桟橋の橋脚基礎が残っています。貨物支線跡は道路・空き地になっています。
彦山川を隔てた方城にあった三菱方城炭鉱の運炭目的で敷設されました。開業当初の起点は本線上(金田〜糒間)の方城分岐点でした。方城分岐点〜方城間の距離は、42C≒844m(T10・鉄道省鉄道統計資料/停車場変遷大事典では0.5M≒804m)。営業期間は、1909年〜1971年。1930年、方城分岐点廃止により起点が金田に変更になっています。現在は、道路・住宅等になっています。彦山川の方城側には、川を渡って方城駅へ続いていた運炭線の煉瓦橋台跡が残っています。