かつては九州の玄関口として賑わった門司港駅。構内の広さは今もあまり変らないようですね。海側の留置線にあるのは旧型客車でしょうか。写真左下には外浜方面の貨物支線からやってきた貨物列車が見えています。今の九州鉄道記念館であるレンガ造りの旧九州鉄道本社前には国道3号線が通っていますが、写真で見てもわかるように大変狭いです。しかもここに西鉄路面電車が走っていました。
沢山の貨車が並んでいるのが見えます。門司埠頭駅や周辺の工場などから貨車が集められていたようです。昭和52年の信号機位置図を見ると、門司方に協同飼料・専売・三菱・出光・丸善・草野、門司港方に門司埠頭駅への貨物支線、セメント・浅野と記された線路があります。現在、駅跡は売却されて店舗と駐車場になっています。
関門トンネル開通前は大里駅と名乗っており、少し門司港寄りにありましたが、開通後は門司駅と改称され現在の位置に移転しました。以降、九州の玄関口として発展していきます。ホームは4面8線と大きな駅でした。客車列車があった頃は関門トンネル専用の機関車に付け替えが行われていました。この作業を見学するのは、ブルートレインに乗った時の楽しみのひとつでした。海側には旅客ホームとは別に貨物を扱う建屋が見えています。信号機位置図(S52)によると、門司港方から神鋼・梶山・日酒・小森江・日粉・製糖の線路、門司駅そばからビールと記された線路が集まっています。小森江は関森航路(貨車航送)の名残?。日酒は現在のニッカウヰスキーの位置に繋がっています。これも大昔の名称の名残でしょうか。ビールは今は無くなってしまったサッポロビール北九州工場。
貨物列車を仕分けするための線路が何十本も並び、さらには大きなラウンドハウスを持った門司機関区を抱えているため大変広い。関門トンネルを抜けてきた列車は、門司駅ホーム手前で旅客本線と貨物本線とに客貨分離されていました。貨物本線はそのまま門司操車場へ、旅客本線は門司駅の先で下り線は山側に、上り線は海側に分かれていました。その挟まれた中に操車場がありました。ここを列車で通る度にワクワクしたものです。現在は北九州貨物ターミナル駅に生まれ変わっています。
かつては蒸気機関車をはじめ、ディーゼル機関車・電気機関車、北部九州で働く多くの機関車たちが所属する巨大機関区でした。空中写真の頃は蒸気機関車は既に廃止されているようで、主を失った大きなラウンドハウスが印象的。2000年頃まで残っていたような気がします。区名札は「門」現在もJR貨物の機関区として北九州貨物ターミナル駅内に健在。
もともとは小倉鉄道(添田線→日田線→日田彦山線一部+添田線)の起点駅として、1915年4月1日に開業した駅。ここから妙見を経由して日豊本線を越えて石田駅へ続き、廃止となった添田線を経由して添田駅(当時は上添田)まで続いていました。
駅は国道3号線から階段を降りて左側にあったようで、この階段跡は今も残っています。また、開業の年に東小倉駅から海側へ向かって「海陸連絡線」と呼ばれる、鹿児島本線の下を通る引込線を敷設し、駅の北側にある高浜海岸に設けられた石炭桟橋まで貨物運輸を行っていました。その後、構内で国有鉄道との貨物連帯運輸が出来るように(小倉鉄道・東小倉〜富野聯絡所は1917年4月21日に開業済)、1917年9月17日、小倉鉄道東小倉駅から35C(≒704m)の地点に鹿児島本線と小倉鉄道との分岐点となる富野信号場(当時は富野聯絡所)が移設され(元・富野信号所/0.1M小倉寄り=小倉裏線分岐点)、9月21日より貨物連帯運輸が開始されました。1943年の国有化後、この信号場は東小倉駅に併合され分岐駅となりました。ただし、鹿児島本線は旅客を扱わず、分岐駅でありながら盲腸線末端駅のような営業形態でした。1956年、城野への短絡線開通後、1962年に東小倉〜水町信号場間が廃止され、鹿児島本線単独の貨物駅となりました。小倉鉄道時代の海陸連絡線は国有化後も残り、その線路を使用して様々な所へ専用線が延びていました。信号機位置図(S52)によると、桟橋引上と書かれた線路(小倉鉄道時代の名残?)から反対方向(小倉側)に、地平・紙運輸・市営・かねみ・仕分と書かれたヤード、さらに小倉側には大協・東京製綱・モービル石油・日本セメント・共同石油と書かれた専用線があったようです。遠くは小倉駅の北側まで延びていました。貨物駅として、一時はカートレインの旅客駅として機能していましたが、門司操車場跡に新設された北九州貨物ターミナル駅に役目をバトンタッチし、現在は営業休止となっています。
山陽新幹線の開業直前の姿です。新幹線開業後は新たな九州の玄関口の駅として栄えます。鹿児島本線・日豊本線の分岐駅であり、海側には鹿児島本線の貨物線も並走しているため線路数が多い。駅の東側では鹿児島本線・日豊本線の旅客線、貨物線の振り分けが立体交差で行われ、非常に美しい線路配置になっています。また、西側でも鹿児島本線・日豊本線間を通る列車の折り返し運転の都合上、複雑な線路配置になっています。北口の門司寄りに見える引込線は東小倉駅の海側から延びてきた線。現在は緑道になっています。駅ビルは20世紀末に大きく改築され、モノレールが延伸され駅ビルに突っ込む形になっています。現在は北口も南口も大きな商業ビルが建ち並び、大きく街並みが変わっています。
日豊本線の列車のみが停車する駅でしたが、国鉄末期に鹿児島本線にもホームが設置されました。駅南側には小倉北区役所や商業ビルがありましたが、跡地にリバーウォーク北九州が建ち、周辺も一気に再開発が進んでいます。駅の北側、国道199号線の向こうに見えているのは住友金属。ここも都市高速のランプ出来たり、国道が整備されたり、住宅展示場やゴルフ練習場が出来たりと、かなり変っています。信号機位置図(S52)によると、浜小倉側の上り貨物線から北側に分岐して、東1番〜6番、住金1〜2、カネミと書かれた引込線が記されています。小倉駅が現在の位置に移転する前はここに小倉駅がありました。
東小倉駅と同じく、北九州の貨物ターミナル駅として機能していました。ここはコンテナを多く取り扱っていました。その後、門司操車場跡に新設された北九州貨物ターミナル駅にその機能を集約され、ここを発着する貨物列車は無くなりました。現在、殆どの線路やコンテナホームは撤去されて、跡地にはコロナワールドという商業施設と広大な駐車場が出来ています。駅自体は数本側線があるのみですが臨時貨物取扱駅として健在とのこと。戸畑側の引上線跡は枕木を使用した遊歩道?になっています。
ここには1919年に開業した上戸畑信号場(開業時は上戸畑信号所)があり、新日鐵からの専用線などもあり、多く側線を抱えていました。新中原駅は地元の要望により、上戸畑と同じ位置に1970年7月1日に開業しました。九州初の橋上駅舎。その後、1990年に九州工大前と改称されました。画像を見ても分かるようにホームの北側は側線がズラッと並んでいましたが、現在は大部分が撤去されて、都市高速や北九州テクノセンターになっています。信号機位置図(S52)によると、本線含めて20番線まであり、小倉側には新日鉄化学(現・新日鐵高炉セメント)と記された専用線、戸畑側には市営線・新日鉄と記された専用線が載っています。
ここで旅客本線(山側)と貨物本線(海側)が分離・並走します。明治以来の元々の線路は海側で、★印の所にホームがありましたが、客貨分離の複々線になった際に現在の位置になりました。現在、駅南側一体は巨大ショッピングセンターとなっており、駅舎も建て変りました。北側も駅前は整備されましたが、渡場へ続く街並みはあまり変わってないように見えます。海側には引込線がいくつかあり、信号機位置図(S52)によると、石炭・明菓1〜2・市営1〜6・岸川と記された線路があります。明菓は明治製菓戸畑工場のことですね。商品名が書かれたビルとその背後に見える若戸大橋が印象的でした。