ここで旅客本線(山側)と貨物本線(海側)が分離・並走します。明治以来の元々の線路は海側で、★印の所にホームがありましたが、客貨分離の複々線になった際に現在の位置になりました。現在、駅南側一体は巨大ショッピングセンターとなっており、駅舎も建て変りました。北側も駅前は整備されましたが、渡場へ続く街並みはあまり変わってないように見えます。海側には引込線がいくつかあり、信号機位置図(S52)によると、石炭・明菓1〜2・市営1〜6・岸川と記された線路があります。明菓は明治製菓戸畑工場のことですね。商品名が書かれたビルとその背後に見える若戸大橋が印象的でした。
戸畑駅の西側には戸畑西部というヤードがありました。石炭輸送が華やかりし頃は、石炭桟橋や貯炭場などがあって活気があったようです。この写真でも石炭車が並んでいるのが見えます。現在は貨物本線が通るのみで、跡地の一部は工場団地やグラウンドになっています。
鹿児島本線客貨分離に伴い、旅客線は牧山トンネルを通る新線になり、現在の枝光駅はその時に移転されました。旧駅は貨物本線が通る★印の所にありました。ホームが残っているのがわかります。旧駅からも各方向に引込線が延びていました。信号機位置図(S52)によると、戸畑方向海側に旭1〜6と記された旭硝子の線、山側に大和線と書かれた線(安田商事→安田興業→大和工業→安田工業・大和工業時代の名残でしょう)、八幡方向に新日鐵への引込線があります。
枝光駅の八幡側、新日鐵くろがね線の橋梁下付近で旅客線と貨物線が分離・合流していました。鹿児島本線は新日鐵の横を通り、撮影ポイントとして有名な大カーブへ向かいます。線路の横の工場はその後スペースワールドとなり、新線切替まではジェットコースターと列車の並走!? も見られました。切替後はくろがね線の橋梁の南西方向に北側から貨物線・旅客線・くろがね線と並走するようになりました。
有名な大カーブ。1999年に新線切替に伴い廃止され、同時に★印付近にスペースワールド駅が開業しました。新線と旧線で囲まれたエリアの北側にはスペースワールドがあります。南側は2001年に北九州博覧祭が開催された影響で、早くから開発が行われて旧線跡もあっという間に無くなりました。ちなみに旧八幡駅は写真内左下の列車が走っている付近。
開業時は少し枝光寄りにありましたが、1955年に現在の位置に移転してきました。同時に駅ビルも完成しています。北九州市立自然史博物館がこのビルに出来た頃、父に連れられてここに来たことがありますが、どこか寂れた雰囲気が漂う、ちょっと古い建物というイメージがありました。その駅ビルも2007年に解体されて、現在は新しい駅ビルに生まれ変わりました。駅の北側は新日鐵の工場がありましたが、一部の敷地が開発されて大型店舗や事業所が建ち、車窓が一変しました。
1927年に開業した貨物駅。旅客線は山側の少し高い位置を通るので、様々な形式の貨車が連なる何本もの貨物列車がよく見えました。新日鐵構内に向けて引込線が延びていました。西八幡駅は1986年に廃止になり、今は貨物本線は残っているものの敷地の半分以上が葬祭場・駐車場になっています。八幡側の新日鐵の引込線はまだ健在のようで、工場で生産されたレールをJR線で輸送するために旧西八幡駅構内の側線が利用されています。ヤード北側の新日鐵の敷地の一部は道路や倉庫になっています。
駅南側の放射状に広がる街並みが印象的。小倉に次ぐ商業地として賑わいをみせていました。この写真ではまだ姿かたちもありませんが、駅前東側の「そごう・メイト・ジャスコ」の巨大ビルが誕生して、黒崎の街並み・人の流れが変っていきます。黒崎駅は地上駅でしたが、1984年に橋上駅舎となって駅前はペデストリアンデッキが設置され現在の姿になります。この間、そごう・ジャスコ→フォーラス・長崎屋・ダイエー→トポスなどの大・中型店舗が撤退、井筒屋の移転、コムシティも短命に終り、アーケードも以前ほどの活気は無くなるなど、駅前商業地の衰退は、まだまだ活気があった1980年前後の黒崎を知る者としては寂しいばかりです・・・。
黒崎駅からは東側に鹿児島本線の貨物支線(黒崎〜黒崎港)、西側に安川電機、三菱化成、三菱セメントへの引込線が延びていました。現在は、三菱化学(三菱化成)の専用線のみが残っています。
1952年に折尾操車場として開設されました。1961年に貨物駅の東折尾駅として開業します。鹿児島本線の上下線・筑豊本線からの短絡線上り線は海側を通りますが、短絡線下り線は貨物本線・何本もの仕分け線や機回し線を挟んだ山側を通っていました。門司操車場や東小倉駅と同じような感じです。西鉄北九州線からは東折尾と書かれた駅舎が見えていました。1984年2月のダイヤ改正時に貨物営業を廃止して信号場になりました。門司駅から続いく貨客分離の複々線はここまでで、貨物本線は東折尾駅の西側で旅客本線と分離・合流しますが、東折尾駅から折尾駅の手前までは鹿児島本線・筑豊本線短絡線が並ぶ複々線でした。2000年に西鉄北九州線が廃止される際、陣の原電停の代替駅として東折尾駅跡地に陣原駅が開業しました。
筑豊本線、鹿児島本線、短絡線×2、西鉄北九州線と鉄道が密集していました。黒崎方面への短絡線にはまだホームはありません。折尾駅前は今と比べて大変狭く、市営バスは折尾駅前に到着した後、西鉄折尾駅横の道へ進んでバックで方向転換していました。駅の便所側に頃末経由猪熊・芦屋方面のバス乗り場、交番側にはT字に駐車出来るバス乗り場がありました。浅川橋経由芦屋・岩屋方面、本陣橋経由若松方面のバスが出ていました。筑豊本線の駅を挟んだ踏切は看守がいる第1種手動踏切でした。今は広い学園大通りも狭い道でした。私にとっては故郷の駅でもあります。このゴチャゴチャした街並みは、私にとっては普通で好きな街でもありました。それが、今、鉄道開通時から長年続いてきた線路配置や街が大きく変わろうとしています。