広い構内に幾つもの側線が並んでいました。旧型客車が留置されているのが見えます。まだ50系客車が登場する前のことです。駅の左側には貨物ホームがありました。現在は殆どの側線が撤去されて駐車場に、貨物ホームは公園になっています。上山田線は、ここから単線となる筑豊本線としばらく並走し、平恒駅の近くで分かれていました。
1面1線のローカル駅です。中学校側には側線を撤去した跡地、臼井側にはホッパー跡が残っていますが、新平恒(=平恒)〜平恒(貨)の貨物支線はここを通っていたと考えられます。現在、線路跡は道路・歩道になっています。ホームの一部は縁石程度の高さを残して花壇になっており、季節によって様々な花を見ることができます。また、ホーム上にあった屋根付き待ち合い所・ベンチも残されています。
明治鉱業平山鉱業所への引込線跡と昭嘉鉱業のものと思われる引込線跡が残っています。平山鉱業所といえば凸型の電気機関車が走っていたことで有名。現在、駅跡は消防署の派出所やバス乗り場などが建っています。ホームの一部は植樹のために整地された敷地の中に辛うじて残っています。「工」杭も数本残っています。
構内には貨車(セラか?)や入れ換え中?のDD51が見えます。画面上部から駅そばの施設まで久恒炭坑の運炭線跡が見えます。駅南側の臼井側から分岐していたように思える土地も気になるところ。昭和58年の嘉穂町誌を見ると、大正末から昭和初期の大隈駅周辺の図が載っています。それによると、駅南には柳ヶ谷炭坑から延びていた運炭線の積込場があったようです。また、嘉穂信号場方面にも日吉炭坑の運炭線が記されています。駅跡は現在、嘉穂交通公園となってなり、腕木式信号機や移設されたレール、列車が掘り込まれたレリーフ、駅跡を示す案内板が設置されています。
油須原線計画の一部として漆生線漆生〜下山田・上山田〜豊前川崎間延伸時に設置された信号場。ここから下山田までは漆生線・上山田線の重複区間でした。2009年まで駅本屋と発電機室、タブレット交換用のステップ、上山田線で数少ない煉瓦構造物であった「谷倉拱橋」など、様々な遺構が残っており、筑豊地区の廃線跡の「聖地」と呼ばれるほどでしたが、県道の拡幅・新設工事により消えてしまいました。2010年4月現在、レールが残っている「日吉捲揚踏切」跡や信号機も、同工事で消えていくようです。
ここも1面1線のローカル駅となっていますが、構内にはホッパー跡らしきものが残っており、多くの石炭列車が行き交っていた賑やかな駅だったことが想像出来ます。駅跡は公園・団地になっており、当時を偲ばせるものは残念ながらありません。後世に鉄道のあったことを伝えるためにも、小さくてもいいので駅跡を示す案内板が欲しいですね。
さすがは元終着駅。構内はそこそこ広いです。旧山田市の中心部なので住宅や商店、学校などが密集してます。webGISの元の写真を見ると、周辺には閉山後の炭鉱施設やボタ山があり、炭鉱の街だったことが一目でわかります。駅跡は嘉麻市立山田図書館などになっており、踏切の警報機や上山田線の説明板が設置されています。
※画像内の山田市役所は現在「嘉麻市役所山田庁舎」です。
★印は、毎年秋に開催されるトロッコフェスタの発着地点です。ここから上山田側の一部を往復します。
駅は1面1線でしたが、丸1と丸2の橋梁は何故か複線分あります。貨物大量輸送時に備え、列車交換可能な駅にするつもりだったのか!? 今も現地に残っていますので、現地へ行かれた際は、その点を留意して探索してみてください。駅の前後は良い状態で残っていますが、駅自体は何も残っていません。
東川崎側に架かる中元寺川橋梁。どう見ても2本あります。真崎駅は1面1線のホームだったはず。やはり、ここも列車交換可能な駅にするつもりだったのだろうか?
駅跡はホームの一部が残っています。他は駐車場・炊飯棟・芝生広場になっています。熊ヶ畑トンネルへ続く線路跡は「雪舟ロード」という遊歩道に整備されています。橋りょう部分は擬木の高欄が新設されただけで、橋台や桁はそのまま流用されています。
油須原線計画で開業した上山田線内の旅客駅(熊ヶ畑・真崎・東川崎)の中で唯一駅舎が無く、ホームだけのなんとも寂しい駅。現在は線路跡は道路になり、ホームがあった場所に駅跡の石碑があります。
今も日田彦山線の駅として健在。当時、多くの側線を抱えていた広い構内はどんどん縮小されて、現在は1面1線の寂しい駅になってしまいました。上山田線に目を向けると、道路とのクロス部分がすべて橋になっている点には驚かされます。また、東川崎側には23連のコンクリート橋「第二西川崎橋りょう」が見えます。これだけ立派な設備を作ったのに、一日たった数本の列車しか走らなかった現実・・・。油須原線の豊前川崎〜大任〜油須原間に比べれば、まだ列車が走っただけ良かった・・・のか!?