赤坂炭坑駅への貨物支線跡が見えています。古くオンボロな駅舎がありましたが撤去されてしまいました。今は当時掲げていた駅名板を残すのみで何もありません。駅としては後藤寺線の駅として営業中です。漆生線跡は道路に転用されています。写真左上には三菱鯰田炭鉱の専用線の橋台跡が見えますが、今は撤去されています。
使われなくなった積込場と何本も並ぶ側線が、活気溢れていた時代の面影を残しています。駅裏には炭鉱施設跡が点在しており、雰囲気が当時の街の寂しさとリンクしているように感じます。現在、駅跡は道路や公園になっています。公園には駅跡を示す案内板や踏切警報機などが設置されており、鉄道があったことを後世に伝えています。
駅前の街並みは今も変わらない感じです。背後には炭鉱街だったことを感じさせる長屋やボタ山も見えます。ここも積込場が無くなり、寂しいローカル駅になってしまいました。下鴨生方面からの列車は殆どが漆生で折り返しで、漆生線を全通する列車は非常に少なかった。才田方面の列車は全て豊前川崎行き、逆も豊前川崎発でした。油須原線計画の影響でしょうね。駅跡は道路や公園になっています。鴨生側の歩道の土留壁には現役時の写真が埋め込まれています。
油須原線計画の一部として開通した区間。1面1線のホームでした。同時に開業した上山田線熊ヶ畑駅・真崎駅のようなコンクリート製の駅舎はありません。「東川崎」と同じような扱いの「とりあえず駅作っときました」みたいな感じの可哀想な駅です。2010年4月現在、駅跡はホームの一部と待合ベンチ・屋根が残っています。ここから嘉穂信号場までの間にはレールやコンクリート橋、キロポスト、第4種踏切跡などが残っています。但し、大部分が藪の中です。
油須原線計画の一部として漆生線漆生〜下山田・上山田〜豊前川崎間延伸時に設置された信号場。ここから下山田までは漆生線・上山田線の重複区間でした。2009年まで駅本屋と発電機室、タブレット交換用のステップ、上山田線で数少ない煉瓦構造物であった「谷倉拱橋」など、様々な遺構が残っており、筑豊地区の廃線跡の「聖地」と呼ばれるほどでしたが、県道の拡幅・新設工事により消えてしまいました。2010年4月現在、レールが残っている「日吉捲揚踏切」跡や信号機も、同工事で消えていくようです。
ここも1面1線のローカル駅となっていますが、構内にはホッパー跡らしきものが残っており、多くの石炭列車が行き交っていた賑やかな駅だったことが想像出来ます。駅跡は公園・団地になっており、当時を偲ばせるものは残念ながら無い。後世に鉄道のあったことを伝えるためにも、小さくてもいいので駅跡を示す案内板が欲しいですね。