写真上にポインタを置くと1981年度の画像に差し替わります。
★印付近に平成筑豊鉄道の赤駅があります。油須原線と田川線が分離していく様がよくわかりますね。赤村トロッコ線と田川線が一番近づく地点なので、車窓からでもよく判ると思います。1981年の写真と比べると、掘割や盛土など油須原線の構造物の全てが新しく綺麗に見えます。このリンク先では1972年の田川線のSL動画が視聴出来ます。その中で上り石炭列車9600型(勾金→油須原)のシーンに分岐直後の油須原線掘割部分が見えています。
写真上にポインタを置くと1981年度の画像に差し替わります。
まだ工事凍結前で若干手を加えられてるせいか全体的に綺麗です。野原越トンネルは途中でカーブして、進行方向が90度変ります。赤村トロッコでは大任側の坑口が見える部分まで進みます。現在、大任側の坑口へは獣道のような所を進んでいかなければなりません。上部を通る道路の脇からフェンス越しに覗き込むことも可能です。トンネルの大任側にはPCマクラギが投げ捨てられている第五上今任凾きょがあります。
画面左が北向きになります。第四上今任凾きょは今でも民家のすぐそばに残っているので見学は容易です。第三、第二上今任凾きょは、PCマクラギが所々に積まれたジャングル化した線路跡を進まなければ辿り着けません。一部は塞がれています。位置的・順番的に考えて、おそらく、現在のT字路付近にあったのが、第一上今任凾きょだと思われます。そこから柿原トンネル〜大任駅跡までは道路・歩道になっています。現在、柿原トンネルや県道を跨いでいた橋りょう跡はありません。大任郵便局裏の盛土跡には埋められた遺構があります。
画面左が北向きになります。現在、柿原トンネルを抜けた先のコンクリート橋付近から添田線との合流付近までの盛土は撤去されて道路になっています。大任小学校横には油須原線建設時に造られた、西暦-月が掘り込まれた側壁が残っています。コンクリート橋付近の盛土跡の一部に土留っぽいコンクリート跡が残っています。小学生の頃、添田線から見たこの盛土は、勾配が付いていたためにとても大きく異様に見えました。
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最も有名なポイント。福田側の盛土は画像からもわかるように結構高いです。崩される前に盛土の上を通ったことがありますが、かなり高度があって法面勾配もきつかったように思います。現在、盛土は崩されて道路になり、橋りょうだけが残っています。油須原線のルートと重なっていた日田彦山線貨物支線第二大任駅から添田線大任駅の手前までは、写真からもうっすら見えていますが、レールが敷かれており、この橋りょうにもレールが敷かれていました。
写真上にポインタを置くと1981年度の画像に差し替わります。
ここも現在は道路になってます。左端の福田トンネルはまだ残っています。日中でもあまり日が当たらない目立たない所です。付近には「工」杭が何本か残っています。
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今は福田トンネルの川崎側は埋められています。トンネル内には立派なPC枕木+レール、謎の橋マクラギ部分が今も残っています。ここの中のでは時間が止まったままです。古河鉱業大峰炭鉱からの石炭を積み出していた、日田彦山線貨物支線・第二大任駅跡には今はなきホッパーがあります。その背後の3基の構造物は健在です。左端に見える白い塊は油須原線用のPCマクラギでしょうか。
写真上にポインタを置くと1981年度の画像に差し替わります。
油須原線のルートは日田彦山線貨物支線「豊前川崎〜第二大任」間(1970年廃止)を転用し、第二大任から延伸する形で福田・大任方面へ進んでいたようです。